私たちが暮らす社会には、さまざまなルールがあります。
法律や条例といった厳格なものから、会社の就業規則、地域ごとのマナー、さらには「常識」というあいまいな社会的規範まで。その幅は非常に広いものです。
ルールと聞くと、どうしても「縛られるもの」「行動を制限されるもの」といった印象が先に立ちます。しかし、本来のルールは誰かを縛るためではなく、みんなが安心して生活できるように設けられた共通の取り決めです。
人間は社会的な存在であり、数多くの人々と関わり合いながら生きています。そのため、もしルールがまったく存在しなければ、力を持つ人だけが有利になる、弱者が不利益を被るといった不均衡が生まれてしまうでしょう。こうした危うさを避けるために人類は知恵を絞り、法律を制定し、「法の下の平等」という理念を打ち立ててきました。
正しく機能するルールは、私たちに安心と秩序を与えます。さらに、秩序のうえに成り立つ「自由」を保障してくれるものでもあります。もちろん、それは法や規範の範囲内での自由ですが、それでも大多数の人々にとって心地よい環境を形づくることができるのです。
ところが、ルールがいつも理想的に働くとは限りません。守る人を増やし、弱い立場の人を守るはずのルールが、逆に人々の自由を奪ってしまう場合もあるのです。
たとえば、近年問題になっているSNSでの誹謗中傷。匿名の発言によって著名人が苦しめられると、「コメントはすべて実名制にすべきだ」「誹謗中傷を投稿した人は厳罰に処すべきだ」といった議論が巻き起こります。確かに被害を受けた人を守るという観点では納得できる意見でしょう。
しかし、こうして新たな規制を次々と加えていくと、思わぬ副作用が生じます。本来すべての利用者に与えられていた「自由に発言する権利」が、少しずつ狭められていくのです。強い批判や異論さえも「誹謗中傷」と見なされるリスクが高まれば、人々は自分の意見を発すること自体をためらうようになります。結果として、守られるべきはずの「健全な議論の自由」が失われかねません。
これはSNSに限った話ではありません。学校や職場でも、必要以上に細かいルールを設けることでかえって息苦しい環境が生まれることがあります。服装規定や提出物の形式など、細部まで決めすぎると本来の学びや仕事に集中できなくなる。良かれと思って整備したルールが、本質を見失わせる要因になることも少なくありません。
こうして考えると、ルールとの付き合い方には大きなバランス感覚が求められることがわかります。
「ルールがなければ混乱する。しかし、ルールが多すぎても窮屈になる。」
この両極の間で、私たちはちょうどよい落とし所を見つける必要があるのです。
自分の生活を振り返ってみると、「これは本当に必要なルールなのだろうか」と疑問に思うものが意外と多いかもしれません。習慣として従っているだけで、誰も明確な理由を説明できない決まり事もあります。そうしたものが積み重なれば、本人の意志とは関係なく「生きづらさ」を感じることになってしまいます。
だからこそ大事なのは、最低限のルールで最大限の自由を手にすることです。
社会においては法律がその役割を担い、個人の生活では自分に合ったシンプルなルールを選び取ることが求められます。
ルールをほどほどに整えながら、誰もが自由に意見を言い合い、安心して行動できる環境を守ること。これこそが、私たちが共に生きる社会を豊かにする知恵なのではないでしょうか。
