014_自分を認識する

他者を通してしか見えない自分

ある禅僧がこう語っていました。
「人は、他者(物も含む)を通してのみ、自己を認識することができる。他人がないところには自分がない。他を意識するときは、それを通して自分を意識しているのだ」。

この言葉を聞いたとき、私ははっとしました。自分について考えるとき、必ず他人との比較や関係性を通して測っていることに気づかされたからです。
「幸せになりたい」と願うときも、「あの人のように」「あの人とは違う形で」と、他者を基準にして自分を意識している。私たちが自己を知る営みは、常に他者との関わりの中で生じているのです。

スマホと「自分探し」

ある人が「電車でスマホに夢中になっている人は、一生懸命自分を探しているんだ」と言ったことがあります。初めは違和感を覚えました。スマホに没頭するのは、むしろ現実からの逃避ではないかと思ったからです。

けれども考えてみれば、スマホを通してゲームや情報と向き合っているとき、その背後には必ず「自分」がいる。人はそこから喜びや安心を感じたり、承認欲求を満たしたりしながら、無意識に自己を確かめているのかもしれません。

ただし、それが「本当の自分」との出会いにつながるとは限りません。惰性でゲームに興じ、情報を浴び続けるだけでは、自己との真剣な対話を避けているのと同じです。

自分を直視する勇気

自分を認識することは、決して楽な営みではありません。見たくない一面や弱さも直視せざるを得ないからです。けれども、たとえ鏡に映る自分が虚像であっても、その姿を通して自己を意識することは人間にとって必要なことです。

ほんの少しでも「これが自分だ」と受け止められたとき、人は自他の区別を超えた境地へと近づいていくのではないでしょうか。仏教で言う「空」や「無我」とは、その延長線上にあるのかもしれません。

自分を認識するとは、我を膨らませることではなく、むしろ我をなくしていくことと表裏一体の営みなのです。

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